「大城エナジック」の半世紀の物語 <第2回>

〜戦災とマラリア禍を乗り越え「沖縄からの脱出」を果たすまで!〜

大城は帝国日本軍による真珠湾攻撃の9カ月前、1941年3月17日 に、沖縄北部の太平洋に面した国頭郡久志村(戦後名護市に編入)字瀬嵩の農家に、姉と兄が各1人、弟が2人と妹が1人いる次男として生れた。家は貧しかった。農地 はほとんど所有せず、小作仕事などで糊口をしのいでいた。
しかも父親が病弱なため、母親のカナが事実上、女手一つで子どもたちを育てた。そんなカナが94歳で逝去したとき、大城は例えようのない 深い悲しみに襲われた。
45年3月に米軍が沖縄に上陸した。その前から米軍による猛烈な艦砲射撃と艦載機による空爆が繰り返され、沖縄は戦火の只中にあった。

米軍の上陸後、日本軍は次第に追い詰められ沖縄本島南部へ撤退していった。日本軍は沖縄戦を本土決戦のために米軍を引き留め時間稼ぎをする戦いと位置付けていた。そのため兵力や労力として住民を大量に動員した。10代の男女も容赦なく駆り出され、「ひめゆり学徒隊」や「白梅学徒隊」「鉄血勤皇隊」などの悲劇を引き起こすことになった。
こうしてアジア太平洋戦争中、唯一の日本本土の地上戦とされる「沖縄戦」は6月まで続き、住民だけで9万4千人が命を落とすという悲惨極まりない結果に終わった。

マラリアの後遺症に苦しむ
大城が住む久志村では戦闘がおこなわれたり、爆撃があったりしたわけではない。だが米軍襲来の恐怖 ヤンバルと共に村人はこぞって山原の奥深くに避難した。それはいまのエナジック瀬嵩カントリークラブの北側からうっそう したた 鬱蒼と樹木が滴る地帯を辿ったところにあった。
この山中の生活は極めて過酷 だった。その最たる例がマラリア禍である。ハマダラカという種類の蚊が媒介して人体にマラリア原虫が侵入することで引き起こされる感染 症。高熱と悪寒を繰り返したり、嘔吐や下痢など腹部に症状が現われたりして、意識障害、呼吸困難、昏睡といった重篤な症状を示すこともある 恐ろしい病気だ。長く後遺症に苦しむケースも多い。

久志村では多くの村人がこのマラ リア禍に苦しめられ、大城の妹と弟 がこの病気で亡くなった。大城自身も重いマラリアに罹り死線上をさま よった。「生き残ったのは奇跡的なこと」と振り返っている。 後に体質が改善し克服できたものの、当時、後遺症に苦しんだ大城は、結局、人より1年遅れて地元の久 志小学校に入学することになる。ちなみに、後に大城夫人となった(旧 姓)田畑八重子もこの小学校に通った。二人は幼馴染なのである。

商業高校で育んだ能力
大城は久志中学を卒業すると、地元の高校ではなく、那覇市の県立那覇商業高校に進学した。1905年創立の名門校で、当時、沖縄に1校しかない商業高校だった。入学時の争率は高く、優秀な生徒が全島から集まっていた。 兄弟姉妹のうち初めて高校へ進 学したのが大城だ。成績は良く向学心が強かった。だが、貧しい家庭で仕送りはあてにならなかった。そこで休日はほとんどアルバイトに精を出した。 第2次世界大戦終結のために結ばれ、1952年に発効したサンフラン シスコ講和条約。日本の独立が承認されたものの、沖縄は米国の支配下に置かれ、締結された日米安全保障条約(安保条約)のもと強力な米軍が駐留し続けていた。大城はそんな米軍関係のアルバイトもしたことが あった。 簿記や会計など、商業高校で学んだことは、後の大城の人生で大いに 役立った。ビジネスを展開する上で、「数字に強い大城」は俄然、力を発揮したのである。

こうして忙しい日々を送った大城だが、卒業を迎えたとき、彼は何としても進学したかった。それも「 日 本 」の大学に――。 しかし資金のない大城にはとうてい無理だった。そこで彼は本土で学費を稼ぎ、その金で大学に進もうと考えた。そして「集団就職」の形で名古屋へ渡ったのである。沖縄から「日本」へ行くにはパスポートが必要なころだった。

E-Friends 2023年10月号より


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