「大城エナジック」の半世紀の物語 <第8回>

〜「8Pシステム」で驚異的成長を実現 2003年にアメリカ進出の第一歩を刻んだ !〜

大城は1997年に4度目の東京進出を果たした。今度はネットワークビジネスによる電解水生成器の販売という事業を展開することにした。 事務所は品川区内に置いた。ソニー本社に近い、というこだわりのゆえだが、事務所といっても木造アパートの一室で、住居兼用だった。妻の八重子も一緒だった。しかし子どもは沖縄の実家に置いてきた。「背水の陣」だった。「これで成功しなかったら、沖縄に戻り細々と暮らしを立てていくしかない」と。そして98年。現行の8ポイント販売管理システム(以下、8Pシステム)ができあがった。それは従来のネットワークビジネスのようなピラミッド型ではなく、縦と横に広がる公平で公正な仕組みだった。 このシステムを用いていよいよビ ジネスを本格化させる時がきた。だが、そうおいそれとは広がらない。収入は少なく、日々の暮らしは楽ではなかった。八重子がファーストフード店でパートの仕事についたのもこのころのことだ 。

あるとき、沖縄の知人から電話があった。東京の池田正浩という人物に会ってみてはどうか、という内容だった。後にエナジックの専務として 大城と仕事を共にした池田は当時、電解水生成器のレンタル会社を経営していた。電 話をしたところ「ではすぐに会おう」となり、居酒屋で会った。
2人はすぐに意気投合。大城は(現東京サロンが入居している)越前屋ビルの近くにあったマクドナルドハン バーガー店2階の池田の事務所に“間借り”することになった(借りたのは庇からいつの間にか母屋になっていったが)。 当時を知る人によると、事務所には10席ほどのささやかなセミナースペースを置いて、もっぱら大城自ら講師を勤めていたという。大城には自信があった。なぜなら、後に定めたエナジック還元5カ条のうち、特に「公平で高収益の還元」と「リアルタイムのスピード還元」という二つの原則が、仕事と収入を切実に求めている層に歓迎されると踏 んでいたからだ。こうして大城を中心に、エナジックに集まってきた人たちが熱心な販売 店となり、日本各地を行脚して「還元水のエナジック」を広め始めた。


「あの当時、まだ海のものとも山のものともわからないエナジックのために力を尽くしてくれた人たちには感謝し かない」と大城は振り返っている。丁度そのころには、商材の仕入れ先を東洋金属に変更し、ピアパルテという品名の電解水生成器を商材にしていた。東洋金属は、後に合併し、エナジック大阪工場に生まれ変わったが、もともとは松下電器産業(2008年に社名をパナソニックに変更)の関連企業で、主に金属部品などを生産していた。
それが、92年に日本テレビの報道番組「今日の出来事」が電解水を「驚異の水」として取り上げたことなどが与って、独自に電解水生成器を開発していたのだ。だが大城はピアパルテの機能に必ずしも満足できず、東洋金属によりグレードアップした商材の開発を求めた。 東洋金属の開発部隊は悪戦苦闘した。
その苦労話は本誌連載の「レベ ラック開発史第2回」(23年9月号)に詳しいが、ともあれ電極版の数を3枚から5枚に 増やし、さらに強酸性電解水の生成機能をも併せ持つ器械の開発に成功したのだった。 これがエナジック向けにOEM(相手先ブランド)として作られた記念すべきレベラックDXである。「レベルをアップして皆でグッドラックを呼び込もう」というのが名称の由来と大城は語っている。

売上高・台数共に大幅増! 
商材が揃った。画期的なビジネ スプランも完成した。あとは「情けの和」を広めるネットワーク作りである。大城自身も各地を巡ってセミ ナーに力を入れた。「話し過ぎて喉がつぶれ声が出なくなったこともあった」(大城)くらい懸命だった。一 方 、大城のセミナーを聞いて電解水の生成メカニズムや8Pシステムなどを学んだ人たちが、講 師となって各地でセミナーをおこなうようになっていった。こうしたことが積み重なり、99年末、とうとう火が付いた。以下は 池田の追憶である。

「鹿児島県にセミナーで出かけていたわたしに、大城八重子さん(現エナジックインターナショナル専務)から“事務所が大変なことになっている。すぐ帰ってきて”と連絡がありました。戻ってみると、廊下から中まで人、人の状態で、かき分けて事務所に入っていくありさまでした」後は一瀉千里だった。右肩上が りの成長を続けていった。月間の販売台数で見ると――。2000年3月は300台だった。それが01年7月には1000台を突破。翌02年2月にはや2000台を超え、5月に3000台、03年4月が4000台、という凄まじい伸びを示した。

02年4月に大阪に初の支店をオープンさせてから国内支店も増 えていった。大城が各地でおこなう社長講演会も03年には何と年間80回に達し約4万人を動員した。年間売上高は99年には約15億円だったが、03年はその13倍の200億円に達した。もともと夫婦二人で始めた事業。しかしそのころには社員数が約80人にまで増えていた。この間、事務所も規模を大きくし た。2000年初頭に東京サロンに近い小西光澤堂ビルに移転した。面積はマクドナルドハンバーガー店2階のオフィスより3倍広い70坪に。さらにその数倍の面積を持つ東京本社(現東京サロン)には2002年5月に移転した。付記すれば、家賃も月25万円→85万円→420万円と急上昇している。


ロス空港へ降り立った大城夫妻
2003年は、大城とエナジックにとってまさにエポックメイキングになる年だった。それは前出のように、「売上台数」「売上高」「社員数」などが過去最高に達したということだけではなかった。後のエナジックの飛躍の原点、あるいは現在のエナジックの祖型となる新機軸が続々登場したのだ。それらはすべて、あえて言えば、大城の直感と楽観、そして共感がもたらした。
最初に取り上げるべきはアメリカ進出だろう。これが起点になって、現在のグローバル企業へと躍進できたからだ。2003年1月、大城夫妻はロサンゼルス空港に現れた。那覇商業高校の同級生であった前原利夫が二人を出迎えた。前原は米在住で、MBA(経営学修士号)を持つ経営コンサルタントであり、神学校で修士号を取得した牧師でもあった。大城とは1960年の那覇商卒業以来だった。2015年に発行した前原の著書『サクセスストーリー 大城博成/小さな島から世界を飲む』で、43年ぶりに会った大城について彼はこう記述している(62ページ)。

「大城夫妻は移民局の手続きを終 えてニコニコ顔で出てきた。人違いではないかと一瞬自分を疑った。彼の頭髪が真っ黒、顔はツヤツヤしてまるで40代の青年の顔だ」と。大城のフサフサ髪については、後にある女性販売店が「本当に自分の髪かしら」と疑って後ろから引っ張った、というエピソードが有名になったが、前原も引っ張ってみたかったのかもしれない。 そんな大城はロスへ観光に来たわけではなかった。さっそく対米進出のための準備に取り掛かったのだった。

E-Friends 2024年4月号より


エナジック50周年記念誌に「半世紀の物語(全10話)」が掲載されています。
各支店またはエナジック オンラインショップ(EOS)からご購入いただけます。
販売価格:¥2,500(税込)