〜まことに小さな島から夢を追って世界へ翔いた !〜
いつも碧い海を見ていた。そしてこの海の向こうには「日本」がある、「世界」があるといつも思い描いていた。20歳で沖縄を離れ、最初の上京をした。それから数度の挫折を乗り越え、ついに背水の陣を敷いた。 エナジックの前身企業を設立したのである。ここから物語は急転回を見せる。
1990年に始まった「世界のウチ ナーンチュ大会」は、沖縄にルーツ を持つ海外在住の人たちが集まっておこなうイベントである。ほぼ5年ごとに催され、毎回、海外から数千人が沖縄にやって来て、文化・芸能、学術等のさまざまな交流イベントを実施している。ちなみにコロナ禍のあおりで、2016年からは7年おいて2022年に第7回が開催された。 海外の沖縄県系人は42万人と推計されている。むろん47都道府県で図抜けた数字だ。沖縄県は他を圧倒する「移民県」なのである。ではなぜ、海外にウチナーンチュが多数在住しているのか。歴史を紐解けば、その背景に「貧困」と「国策」が浮き彫りになるだろう。
海外移民は1900年ごろから本格 化した。主要移住先は米ハワイ州や南米ペルー 、ブラジル 、そしてフィリピンなどだった。1941年12月8日にアジア太平洋戦争が勃発。唯 一 、日本本土で日米地上戦がおこなわれたのが沖縄で、その結果、非戦闘員を含め20万人が命を落とすという悲惨な結末を迎えた。そして戦後。大規模な米軍用地の接収によって農地や宅地などの生活基盤となる土地が減少し、他方、人口は急増した。そこで1950年に発足した民政機構(のちの琉球政府)は、過剰人口対策として海外集団移民を推進する方針を 選択した。
以来、ボリビア、ブラジルなど南米を中心に再び海外移民の送り出しが盛んになった。日本政府も渡航費を援助するなど、「 国 策 」として移民を後押しした。この間、例示は省くが、多くの人びとが移民先で例えようのない辛酸をなめた。日本へUターン帰国する人も現われた。だが多くは懸命な努力をたゆまずはらい、それぞれの持ち場で地歩を築き上げていった。
強力な“海外志向DNA” こんな移民の歴史を持つウチ ナーンチュには「海外志向」が強い、との見方がもっぱらだ。しかし、他 にもその志向性を育んだものがある 。それは、より古い地理的・歴史的要因である。その象徴が(2019年10月に 焼失した)首里城正殿の「万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘 」であろう。 琉球王朝時代の1458年に鋳造 されたこの鐘には、琉球が海洋国家として日本や中国明朝などアジアの諸国家との間で交易を盛んにし、万国の「 架け橋」たらんとする銘文が刻まれている。
(2023年から数えて)はるか565年前にも強く志向され、連綿と受け継がれてきた「海外へ」との気概を見ると、19世紀後半以降の移民の要因を、単に「貧困と国策」だけに求めることは許されないだろう。
東シナ海とフィリピ ン海に挟まれた海域に浮かぶ、小さな沖縄諸島に住むウチナーンチュは、あたかも“海 外志向のDNA”とでも呼べる遺伝情報を保持し続けてきたのではないか。そしてエナジックの創業者である 大城博成にはこのDNAが人一倍過 剰で、ごく若いころから、その発露先 を求めて動き回っていたのだった。


エナジック50周年記念誌に「半世紀の物語(全10話)」が掲載されています。
各支店またはエナジック オンラインショップ(EOS)からご購入いただけます。
販売価格:¥2,500(税込)