「大城エナジック」の半世紀の物語 <第4回>

〜東京から志半ばで無念の帰郷。 そして久志村役場勤務が始まった〜

1961年から都内の電話器関連の部品メーカーに勤務していた大城だが、「父危篤」の報を受け、生まれ故郷の久志村へ戻った。そして父親の死を看取ると、東京には戻らずそのまま久志村に残った。大城は内心、「本当は東京へ戻りたかった。志を捨てたくなかった」のだ。しかし、残された母親の顔を見ると、とてもそんなことは言い出せなかった。こうして大城は久志村役場に入り、税務担当部署に配属された。大城が役場勤めを始めた62年当時、久志村は1970年の1町4村の合併により名護市になる前で、瀬嵩を含め13の区で成り立っていた。ある資料によると、60年に瀬嵩は67世帯・人口380人としている。人びとは農業や炭焼きなどの林業によって生 計を立てていたというが、実はこの瀬嵩、戦後の一時期、“瀬嵩市”になったことがある。

敗戦後の山原の苛酷な生活
1945年3月に米軍が上陸してから始まった沖縄戦は、日米両軍が日本領土内でたたかった唯一の苛烈な地上戦だった。そのため主に戦場となった沖縄中南部の住民の多くが北部へと避難せざるを得なかった。
その大半は山原といわれる山間部へ逃避していった。そこでの生活は苛酷を極めたが、6月23日、日米両軍の兵士と民間人(94,000人)を 合わせ20万人もの戦没者を生んだ地上戦がようやく終結した。 勝利し占領軍となった米軍は山間部へ避難していた住民に山を下るよう勧告し、現地に収容するようになった。そこでの生活も厳しいものだった。瀬嵩には7,000人近くが各民家や鶏小屋など粗末極まりない建物に押し込められ悲惨な収容生活をおくらざるを得なかったという。とくに食糧不足とマラリア禍は深刻だった(大城自身、この時期にマラリアに罹患して長期にわたり苦しめられた)。
こうして瀬嵩と他地区も併せ人口がおよそ3万人にも膨れ上がったことにより、45年9月に瀬嵩市が成立した。大城はこの時まだ4歳。実感など持ちえないころだったが、生活の困難さは記憶の底にかすかに横たわっている。いずれにしろ、米軍は沖縄本島の中 部から北へに13カ所の収容地を設け、多数の避難民を収容したのだった。だが中南部の人たちの帰村が始まると瀬嵩地区などの人口も激減し、47年には元の久志村瀬嵩に戻ったのである。 話が少々横道にそれてしまったが、幼年期から少年期にかけて、瀬嵩の大城は直接の戦火こそ浴びることはなかったが、苛烈な戦禍の渦に巻き込まれていたと言えるだろう。

役所仕事に精出す日々 
久志村役場に勤務してから大城は7年間、真面目に務めた。力を入れたことの一つが、山原地方独特の「共同店」に会計監査の仕組みを導入することだった。 共同店とは、各家庭が集落単位で共同出資して運営する生活協同組合のような組織体で、食品や生活雑貨、文具などいろいろなものを扱うコンビニ的存在である。同時に、単に買い物をするだけでなく、地域のコミュニティにとって人びとが集まる懇親や憩いの場でもあった。
沖縄の“ゆいまーる”(助け合い)精神を具現化したような店舗だったが、その分、ツケ払いなどが当たり前で会計・経理面は“ゆるやか”だった。そこで大城は、共同店の日々のお金の流れを記録して帳簿書類を整理し、決算のための財務諸表の作成によって財政状態を正しく把握するよう指導していった。この分野では得意の商業簿記が大いに役立った。収税担当だったから、たまに嫌味を言われたりもしたが、大城はまずまず平穏な日々を過ごしていた。 その代わり、組合運動と「祖国復帰運動」には熱心に取り組んだ。「当時、僕は革新系だったんですよ」と大 城はいう。 祖国復帰運動とは、いうまでもなく、米軍統治下の沖縄を日本に復帰させようとする運動で、占領間もないころは復帰か独立か、または国際連合の信託統治下におかれるべきか、など、多様な議論が交わされていたが、次第に復帰説が有力になっていった。
とくに1951年締結のサンフラン シスコ講和条約によって、沖縄が切り離されたまま日本が“独立”を認められると、復帰運動はますます高まりを見せるようになった。
以来、「島ぐるみ闘争」と呼ばれる大規模な運動を経て、大城が久志村役場で働きだすころから、日本復帰への道のりが見え始めてきた。と同時に大城の「日本(本土)へ」との思いも強まってくるのだった。

E-Friends 2023年12月号より



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