〜久志村役場の仕事に終止符を打ち再度上京して経理担当サラリーマンに〜
大城は1965年から久志村役場で働いていたが、当時、米軍統治下の沖縄の通貨は円ではなくドルだった。もともと1946年8月から米軍発行のB型軍票紙幣(通称B円)や日本銀行券などが法定通貨とされていたが、一カ月足らずで日本円を法定通貨とする布告をし、さらに48年には再びB円を法定通貨に戻した。結局、58年にドルを法定通貨とすることで決着し、以来、72年5月15日の本土復帰まで、沖縄ではドルが流通した。軍政下で沖縄は通貨をめぐって翻弄され続けてきたと言えるだろう。ついでに触れておくと、5 月15日まで日本本土と沖縄を行来するさいにはパスポートが必要だった。さて大城が勤務していた久志村役場の月給だが、約 30ドルだったという。当時は1ドル=360 円の固定相場制の時代だから、日本円では一万円少々ということになる。
『値段史年表』(朝日新聞社)によると、大城が久志村役場を退職した68年当時、本土の小学校教員の初任給は2万7600円。大城が得ていた給料はこれらの半分以下で、とても安かった。
それでも大城は借金をして瀬嵩に自宅を新築した。1100ドル(約40万円)かかったという(これが今も残る瀬嵩の生家である)。
帰村し養豚業に乗り出す
だが、次第に苛立ちが募ってくる。「このままでいいのかも。もっと専門的な勉強をしたい。おふくろも落着いてきたいまが東京へ行く最後の機会かもしれない」。大城は後の会社経営でも顕著なように、果断な一面を持っている。さっそく行動を開始した。
今度は東京証券取引所があり、「株のシマ」兜町に隣接する中央区日本橋茅場町の会計事務所に入所した。「役所の経験を生かし税理士になりたい」と考えていたのだ。練馬区の石神井公園に近い3畳1間の下宿に住んで、事務所 に通った。中央大学の夜間部で税務会計の講習を受けるなど、税理士試験の準備を進めていた。 しかし2年たった1971年、事故により次兄重体の一報が入った。税理 士になるためには大切な時期だった。苦悩した。親族の「おふくろを1人にする気か」という声が耳に届いた。 結局、大城は久志村に戻った。村で、大城は仕事を始めた。独立志 向が強まり、勤める気はなかった。手がけたのは「養豚業」。実家の敷地内に豚小屋を作り、育てては市場に送り出した。最大200頭飼育していたという。
ちなみに『名護市史/本編・11』に掲載されていた「瀬嵩の農業基本統計表」によると、1971年当時、瀬嵩の農家が販売した農畜産物で1位が豚だった。また同年の飼養家畜数も豚がダントツ1位で2位がヤギ、肉牛は3位である。大城は瀬嵩では盛んだった養豚業に乗り出したのだった。
幼馴染の田畑八重子と結婚
この間、大城は地元の娘と結婚した。相手は田畑八重子。現エナジックインターナショナル専務である。幼なじみといえる彼女は、地元の高校を卒業すると、岡山県の短大に進学し、卒業後は岡山市内の施設で保育士をしていた。そのころ東京の会計事務所にいた大城とは、「遠距離恋愛」のような交際があり、結婚は自然な成り行きだった。
73年、養豚業に見切りをつけ、仕事の当てのないまま2人で東京に出ていった。東京への羨望と上昇志向の念がいっこうにおさまっていなかったのだ。行き先はかつて住んでいた練馬区の石神井だった。6畳1間の部屋を借り、池袋の職安で仕事を探した。幸い、日本ビジネスマシーン(JBM)という会社に就職が決まった。このころ、石神井で生れて初めてトンカツを食べた。養豚業を営んでいても食べる機会はなかったのだ。
「おいしかったねえ。以前、訪ねていったらまだ開業していて、二代目が切り回していました」と、大城は懐かしそうに語っている。 JBMでは経理マンとして働いた。 転勤し大阪でも働いた。その大阪で後の人生を決定づける人物に出 会った。大阪ソニー販売の具志堅社長である。彼は大城に言った。「いつまで経理マンをやるんだ。やるなら営業だ」。JBMが扱う計算機の業界に異変が起きた。折からの過剰生産・過当競争の中で、計算機の価格がみるみるうちに下落。とうとうJBMは倒産する事態に。倒産後も経理担当として会社に残っていた大城は、残務整理を終えると、具志堅のアドバイスどおり大阪でソニー製品の販売会社を設立しようと決心した。だが、様々な条件がついた。とくに資金面で、とてもクリアできない条件を突きつけられ、断念せざるを得なかった。「 だったらふるさとの沖縄で開業したらどうか。沖縄ソニー販売を紹介するから」と、具志堅社長は言ってくれた。大城はこの誘いに 応じた。これが彼の人生を大きく転換させることになったのだ。


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