「大城エナジック」の半世紀の物語 <第6回>

〜エナジックの前身 日本シグマック創設! ソニー専門商社として急成長したが…〜

大阪でソニー製品の販売会社を設立しようとした大城だったが、とりわけ資金面で突きつけられた条件をクリアできず、あえなく断念。だが同郷の大阪ソニー販売の具志堅社長の進言に従って、ふるさと沖縄で起業しようと決心した。大阪のマーケットに比べたら格段の差がある沖縄。だが、1972年の日本復帰後、本土資本が進出しはじめたばかりの沖縄は新興の市場だった。ビジネスを展開するよい機会かもしれない。そう考え、大城は沖縄に戻ったのである。紹介された沖縄ソニー販売の当時の社長にもちかけた事業方法は、「無店舗仕入れ販売」だった。店を開いて売るのではなく、要は訪問販売である。現在のエナジックの「無店舗」方式を彷彿させるが、当時、ソニー製品のそんな販売方法はどこもおこなっていなかったらしく、その社長は一瞬ためらったが、結局、「おもしろい発想だ。やってみてくれ」と賛同。製品の卸を快諾してくれた。

大いに当たった訪販方式
こうして、エナジックの前身、日本シグマックが、ソニー専門商社として74年6月21日に登記を済ませ、那覇市内に誕生したのだった。資本金100万円。「兄弟を始めいろいろな人から借りまくって資本金を集めた」と大城はいう。扱う商材はラジオ付きカセットレコーダーのみ。現金ではなくクレジットで定価販売する。一軒一軒訪問して注文を取る。ーーそう、名古屋で経験した”御用聞き”とさして変わらない方法だ。ただし、扱うのは有名なソニーブランドである。「これが大いにあたり売れに売れた」(大城)。
売れ行き好調で社員が増えていくにつれ、さすがに必要はなくなったが、当初は大城自ら訪問販売を行っていた。その成績は?(あいにく聴き損なってしまった)
1975年、ビデオデッキが市場に現れた。ソニーはベータマック方式。他方、ライバルの日本ビクターや松下はVHS方式である。後に「ビデオ戦争」の異名をとる戦いはまだ激化していなかったが、これも大いに当たった。やがて九州にも進出。鹿児島、宮﨑、熊本・・・・・と、次々に事業所を開設し、最盛期には8県に事務所を構えた。それだけではない。ソニーから誘いを受け、関連の」大手レコード会社、CBSソニーのレコードセットを訪問販売する事業にも乗り出した。同社はソニーと米CBSとの合弁で70年に設立されたばかりの企業で、訪販によって売上を延ばそうとしていた。 大城は沖縄ファミリークラブという別会社を設立してこの事業を展開した。営業マンはフルコミッションに近い形で、連日、外回りに精を出した。彼らの中には2年連続で売上高日本一の営業マンが出るなど、成 績優秀者が多く、売上増に寄与した。

「ビデオ戦争」でソニー敗北
さらに、関連事業として各地にビデオセンターを設け、映画、ドラマなどの作品を収録したビデオテープのレンタルを開始した。当時、これは新しい業態で、ビデオテープが高価だったためレンタルの需要は大きく事業は順調に進展した。 まだある。ソニー化粧品の訪問販売も手がけた。これは間もなく分離独立させ、訪販だけでなくサロンを作って客を招き販売する方法も取り入れ、これも当たったのだ。
こうして沖縄・九州に幅広いビジネ スネットワークを築き、社員300人、年商50億円規模の中堅企業へと発展していった。 毎年正月には、那覇の自宅に社員100人余が集まり、盛大に新年を祝った。2女1男にも恵まれた。車はクラウンだった。だが、まもなく事態は暗転する。例の「ビデオ戦争」でソニーの敗色が色濃くなってきたのだ。
この「戦争」は日本の主だった家電企業を巻き込んで勃発した。70年代半ば、ビデオテープレコーダーはソニー、日本ビクター、東芝、松下電器、三洋電機などがそれぞれ手掛け、実に6種類もの規格が乱立していた。それが次第にソニーのベータマックスと日 本 ビクターのVHS方式に収斂し、この二強が争う構図となった。 その後、録音時間の優位性や部品数の少なさ、さらに販売店の数が多かったことなどからVHS方式が有利になり、生産台数でベータマックスを上回るようになった。こうして80年代に入るとベータマックスの敗北は誰の目にも明らかになった。
ベータマックスの販売は日本シグマックの支柱ともいえる事業だ。それが低迷しだした。大城は焦った。 社員にも動揺が広がった。だが、うまい手立てなど見つからず、ただ仕事に精出す日々が続いた。 だが80年代半ばのある日。ソニー の幹部から大城に決定的な通告がなされたのである。

E-Friends 2024年2月号より


エナジック50周年記念誌に「半世紀の物語(全10話)」が掲載されています。
各支店またはエナジック オンラインショップ(EOS)からご購入いただけます。
販売価格:¥2,500(税込)