「大城エナジック」の半世紀の物語 <第9回>

〜グローバル化の急激な進展と共に地域振興策としてウコン工場を設立!〜

2003年1月、ロサンゼルス空港で、那覇商業高校時代の同級であり、米在住の経営コンサルタントでもある前原利夫の」出迎えを受けた大城。彼が最初に着手したのは、前原家にレベラックを設置することだった。前原の著書『サクセスストーリー大城博成/小さな島から世界を飲む』(以後、『小さな島』と略)によると、それは水質や蛇口の取り付け、水量カウンターの状態などを確認するためだった。レベラックが使えるかどうかを試したのだ。
それから現地法人設立のため、前原と共に登記に走り、仮事務所をセットして女性社員一人を採用。こうして瞬く間に「Enagic USA Inc.」(エナジックUSA株式会社)が設立の運びとなった。
前号で書いたように、2003年当時、エナジックは「売り上げ台数」「売上高」「社員数」などが過去最高に達し、まさに絶頂期にあった。そこで大城のアメリカ進出構想には各方面から陰に陽に反対や質問の声が上がった。「日本ですごい実績を上げているのに、なぜわざわざアメリカに出ていくんだ」と。
大城の考えは明快だった。日本のマーケットだけに頼っていてはいずれ限界が来る。グローバル化は必然。そして打って出るなら世界最大のマーケット・アメリカだ。
もちろん、後(2011年5月)に日本特許庁からビジネスモデル特許の認定を受けた「8ポイント販売管理システム」がアメリカでも受け入れられるだろうという目算もあった。加えて、ウチナーンチュに特有の「小さな島から海外へ」という志向も寄与したのだろう。
ともあれ大城は2003年を「グローバル元年」と位置付け、海外進出を開始したのである。先走って言えば、このことは後にエナジックを救うことにつながった。つまり大城の直感と楽観が追ってプラスに働き、誰もが彼の先見の明に驚くことになるのである。

絶頂期の日本マーケット
会社設立後間もない6月29日にオフィスの所在地であるカリフォルニア州トーランス市で記念すべき海外進出第1回目の大城博成講演会が開催された。ホテルの会場は日本からの参加者も含め250人で埋まった。大城は終始、興奮気味に講演をおこない、参加者の熱気を帯びた反応ぶりから「アメリカ進出は成功する」と、確かな手ごたえを感じたのだった。
そしてこの2日後にはロス支店がオープンした。8月末にはハワイ支店もオープンし、9月1日にハワイ初の大城講演会が開催された。こうしてグローバル化は急速に進んでいったのだ。 一方、日本のマーケットは(いま振り返れば)最高潮にあった。たとえば 毎月1回、品川のパシフィックホテルで開かれていた大城の講演会には優に1,000人を超える参加者があった。中でも04年1月11日の講演会は新年ということもあって、ついに1800人に達し懇親会場は身動きできないほどだった。
都内での大城講演会は、00年の池袋・東京芸術劇場が皮切りだったようだ。しかし、参加者はせいぜい80人。その後、会場は何度か変更され、最終的に品川のパシフィックホテルに落着いたのだが、当初、このホテルでも300人程度の参加者だったというから急な増大ぶりには驚かされる。 ほかに急成長を示すバロメーターは、各地の支店の開設状況だろう。最初は大阪支店だった。02年4月にオープンした。ついで沖縄支店、札幌支店、福岡支店などと続き、年内で合計6支店がオープンした。03年も同じく開設ラッシュで、広島、鹿児島、京都など5支店が設置された。
この年の7月には、大阪工場のリニューアルが完了し、生産能力が飛躍的に向上した。同時にこの月から毎月1回、大城の講演会を兼ねた大阪工場見学会が定例化され、毎回、多くの販売店・ゲストが「Made in Japan」の現場を訪れるようになった。 生産工程を見て説明を受けることと大城の講演を聞くことで、参加者は製品の精密さとビジネスの信頼性を再認識していったのである。
2011年からは工場見学だけの行 事となったが、代わって増えだしたのが海外からの見学者である。やや先走るが、12年ごろから各国の販売 店・ゲストがグループで訪問するようになった。それも数十人から多いと100人を超えるほどのスケールだった。ちなみに13年6月に訪れたマレーシアチームは何と143人を数えたほどである。 これはその年の6月に沖縄県・名護市瀬嵩(せだけ)で開催されたグローバルコンベンションの参加者が本土へも足を延ばして工場見学を、という流れの一環だった。以来、沖縄で実施したグローバルイオンベンションや3月17日の大城会長誕生祝賀イベントの前後ともなると、来日グループが大挙して工場見学を実施する、というトレンドが確立し、今も引き継がれている。

米大統領主催の朝祷会に出席
さてその後もグローバル化は着々と進んだ。ロスを皮切りに、ハワイ、ニューヨーク、シカゴと次々に進出した。アジアでは03年の台湾(台北) に始まり、香港、オーストラリア、シンガポールと続いた。この間、2005年2月には、ジョージ・ブッシュ大統領(当時)主催の朝餐祈祷会に出席するという栄誉に与った。前原の著書『小さな島』によると、これは毎年、アメリカの政治家が主催する国際的なイベントで、政界に限らず、財界、外交官、キリスト教関係者など内外のエリートが一 堂に会する機会。その年の朝祷会には2,250人が参加し、日本人はわずか8人だったという。
その時のエピソードを前原が自著で紹介している。大城夫妻と同席したアメリカ人ビジネスマン親子に前原が「ミスター大城は何才くらいに見えますか」と尋ねたさいのことだ。「ビジネスマンのお嬢さんが『そうね、35才くらいかしら』と返事が返ってきた。年を明かすと、同席の人たちはビックリ。大城はにんまり!」(『小さな島』82ページ)。 前号で「女性販売店が後ろから大城の髪を引っ張った」エピソードを紹 介したが、アメリカの“お嬢さん”も内心、引っ張ってみたかったのかもしれない。それにしてもこの時、大城は64歳! 約30歳も若く見られ るとは、大城の「にんまり!」も当然か!?
以上のとおり、グローバル化に拍車がかかり、総売上高に占める海外の比率も次第に高くなっていった。やがて日本を上回るようになり、もはや海外進出を批判する声も聞かれなくなった。では大城はいまや日本を顧みず、海外一辺倒になったのか。否だった。特に「足元」への思いは逆に強まるばかりと言ってもよかった。ウチナーンチュとしての故郷への思い入れである。

大城夫妻の生まれ故郷である名護市旧久志村(くしそん)の瀬嵩地区は人口減少が著しく、高齢化も進み、農家数や農業従事者数も減る一方だった。これは瀬嵩に限らない現象だが、大城は故郷に戻るたびに休耕地が増え、活気が失われていくことに心を痛めていた。こうした地位域のために少しでも貢献したいと考えた大城が思い当たったのが、特産のウコンだった。名護市を含む沖縄本島の北部一帯は「山原」(ヤンバル)と言われ、高品質のウコンの産地だった。しかし、輸入ものに押されたことなども拍車をかけ、生産量は減っていた。
しかし恒常的にウコンを原材料にした商品を作れば、ウコン農家にとって歓迎すべき販売先となり、製造会社は雇用を生むことにもなる。 大城が思いついたのはウコンを原材料にするサプリメントだった。大城は近郊農家の栽培するウコンを材料に、レベラックが生成する還元水と電解酸性水もフル活用した新しいサプリメント「還元ウコンΣ(シグマ)」を作る工場を瀬嵩に設けたのである。2003年12月のことだった。 大城はその時、契約農家が作ったウコンは全量受け入れ、値段も崩さないという原則を立て、以後、守り通 した。それだけでなく、還元ウコン茶やウコン入り石鹸などバラエティに富んだ製品も送り出すようになった。記念すべき地域振興策の第一弾となったウコン工場。だがそこにとど まることはなく、大城の取り組みはさらに広がりを見せるのである。

E-Friends 2024年5月号より



エナジック50周年記念誌に「半世紀の物語(全10話)」が掲載されています。
各支店またはエナジック オンラインショップ(EOS)からご購入いただけます。
販売価格:¥2,500(税込)