<第1回> LeveLuk開発史

黎明期——–すべてが手探りだった

今から30年余り前、1992年の6月である。当時の大阪工場で開発担当者であったまだ20歳代の私は、ある書類お到着を心待ちにしていた。それは、ピアパルテと名づけられた大阪工場の電解水生成器1号機の医療機器製造承認書である。
当時は現在とは異なり、電解水生成きは電気用品取締法(電取法・現在の電気用品安全法)の甲種指定品であり、電取法の型式認可を取得した後、その認可書と共に薬事法(現在の薬機法)に基づいて申請する必要があった。
また当時は、その申請方法を調べるにも関係省庁へ電話をするか、直接出向いて質問するしかなく、電取法に関する分厚い解説書を入手し、格闘した記憶がある。
そのころおおsか工場から車で2時間ほどの兵庫県尼崎市に電気用品試験所があり、ここへ試作品を数台持ち込んで試験を依頼し、2種間ほど後に試験結果を受け取るというようなことであった。試験結果がOKであれば、型式認可が得られるが、NGなら、もちろん是正や改造が必要だ。当時は初めてのことでもあり、何度も尼崎へ車を走らせた覚えがある。
この電取法の型式認可は92年1月に得られたが、次の難関は薬事法の医療機器製造承認である。これは、東京の厚生省(現在の厚生労働省)へ試験データなどと共に申請書を提出し、”ご沙汰”を待たねばならない。あらかじめ製造承認OKの連絡を受けていた私は、正式なご沙汰である書類の到着を待っていたのだった。
それまでの大阪工場は主に松下電器産業(現在のPanasonic)向けに金属部品を生産しており、オリジナルの家庭用電化製品を製造するなど、会社も初めてなら、私も初めてのことだった。その1年半ほど前に入社した私は、以来、ほぼ電解水生成器の開発に携わっていた。
「開発」といえば聞こえはいいが、「水の電気分解ってなに?」「水を入れたビーカーに電極を突っ込んで、電気流して泡がブクブクって、あれか?」「そんな水を飲んでもいいのか?」「pHって何?何で決まるの?」などといったレベルで、実に牧歌的だった。
かくして、厚生省より医療機器製造承認書(現在では製造認定証)は到着し、大阪工場で電解水生成器の製造が開始されることとなった。
もちろん、これが紆余曲折を経て30年以上も続くことになろうとは思うはずもなく、手間隙をかけ目標の承認書を手にできた喜びと共に、「えらいことになった、一部とはいえ私が開発を担当した物を製品として販売などしても良いのだろうか?」などと少々、びびっていたものである。
とはいえコトは始まった。そしてこの当時、某テレビ局が医療分野におけるアルカリイオン水の効果効能を大々的に報じたことがキッカケとなって、業界では「水バブル」と言われるアルカリイオン水の第ブームが巻き起こっていた。その最中に新規参入メーカーとして製品を発売することになったのだった。

(株)エナジックインターナショナル専務取締役
リサーチセンター長 奥村一彦